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華岡青洲という人物

2017.12.21

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こないだ、墓マイラー 44 華岡青洲先生という記事を書きました。

 

 

今日はその時墓参した、華岡青洲(1760-1835)先生についてまとめておきます。

 

 

どんな人物か。(Wikipediaから抜粋)

 

 

華岡青洲

 

 

1760年、医師の家系である華岡家の長男として和歌山県紀の川市西野山に生まれる。

 

1782年、22歳で京都に出て、吉益東洞の息子である吉益南涯に古医方を学ぶ。

 

吉益東洞(よしますとうどう)について

吉益南涯(よしますなんがい)について   参照

 

続いて大和見水(やまとけんすい)の養子である大和見立(やまとけんりゅう)にカスパル流外科(ドイツの外科学)を1年学ぶ。

 

さらに見水の師・伊良子道牛(いらこどうぎゅう)が確立した「伊良子流外科」(古来の東洋医学とオランダ式外科学の折衷医術)を学んだ。

 

(これ気になるなあー、どうやって折衷したんだろうか。。。( ゚Д゚))

 

その後も長く京都に留まり、医学書や医療器具を買い集めた。

 

その中でも特に影響を受けたのが永富独嘯庵(1732-1766)『漫遊雑記』であった。

 

永富独嘯庵という人物 参照

 

そこには乳癌の治療法の記述があり、後の伏線となる。

 

(まあ読んでみると、ホントにちょこっと書いてあるだけなんですがね。)

 

1785年、25歳で帰郷して父・直道の後を継いで開業した。

 

父は息子の帰郷に安心したのか、同年に64歳で死去してしまう。

 

手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始める。

 

研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(そううず:トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見。

 

動物実験を重ねて、麻酔薬の完成までこぎつけたが、人体実験を目前にして行き詰まる。

 

実母の於継と妻の加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」(別名、麻沸散:まふつさん)を完成させる。

 

1802年、42歳で紀州藩主・徳川治宝に謁見して士分(武士階級)に列し、帯刀を許された。

 

1804年、44歳で大和国宇智郡五條村の藍屋勘という60歳の女性に対し、通仙散による全身麻酔下で乳癌摘出手術に成功した(しかし4ヵ月後に患者は死亡)。

 

これは、1846年にアメリカで行われた、ウィリアム・T・G・モートンによるジエチルエーテルを用いた麻酔の手術よりも40年以上前のことであった。

 

乳癌だけでなく、膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出術などさまざまな手術を行っている。

 

彼の考案した処方で現在も使われているものに十味敗毒湯、中黄膏、紫雲膏などがある。

 

(紫雲膏を知らない鍼灸師はいませんね。灸をするときに火傷防止で使います。)

 

医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設け、生涯に1000人を超える門下生を育てた。

 

中でも特に優れていたのが本間棗軒(1804-1872)であり、膝静脈瘤の摘出などの手術を行い、またいくつかの著作を残した。

 

しかし、本間棗軒はその著作の中で、青洲から教わった秘術を無断で公開したとして、破門されている。

 

(因みに本間棗軒原南陽にも師事しています。)

 

「原南陽(はらなんよう)」という人物 参照

 

青洲にはこのように、自分の医術を限られた弟子にしか公開しないという、秘密主義的な面が存在した。

 

(これはパッと聞きは良くないことのように聞こえるが、自分の奥さんが失明するほどの危険な薬を扱っていたわけで、変に広まらないように配慮したんでしょうね。)

 

1813年、53歳で紀州藩の「小普請医師格(こぶしんいしかく)」に任用される。

 

ただし青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。

 

(まあこれは要は、幕府の家臣なんだけど特別枠、というおいしいポジションです。お上に物言えるくらい実力があったということでしょう。)

 

1819年、59歳で「小普請御医師」に昇進し、1833年、73歳で「奥医師格」となった。

 

1835年、76歳で家人や多くの弟子に見守られながら死去。

 

 

 

 

・・・とのことです。

 

 

生涯をザックリ分かろうと思ったら、wikiで十分ですね。(笑)

 

 

ただ、京都に出た時の外科学の師匠は大和見水じゃなくて大和見立じゃないかと思うんですがね。

 

(・・・ま、実は俺はこういうのどっちでもいいんだが(笑))

 

 

名家に生まれ、一心に研究し、世界に名前を響かせた青洲先生。

 

 

こないだ墓マイラー行った時には、お墓のある地域一帯で、華岡青洲押しでした。

 

 

200年以上前の先生だというのに、凄すぎますね。

 

 

 

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