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Search Results for: 老子

「太極」「無極」の意味 7

2019.09.22

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これまでのお話し

 

「太極」「無極」の意味    

「太極」「無極」の意味 2 

「太極」「無極」の意味 3      

「太極」「無極」の意味 4  

「太極」「無極」の意味 5      参照

 

 

さて、続きいきましょう!!

 

 

◆「気」の哲学の変遷

 

 

さてここまで、「太極」「無極」「その両者の関係」「鍼灸臨床家としてはどうか」あたりを題材として話を進めてきました。

 

 

「臨床家としてはどうか」というところで、北辰会ではこの医学の言う「陰陽論」を、単に「陰陽論」と呼ぶのではなく「”太極”陰陽論」として、

 

理解、運用するべきだ、というお話(臨床古典学)もしました。

 

 

蓮風先生の御著書では、中国、成都中医薬大学の教授で、易学の大家である鄒学熹先生『易学十講』の論を参考に、陰陽論というのは「陰」「陽」「その境界線」の3つ、

 

「三を含みて一となす」という考えがあり、全て一つであるという太極と、陰陽と境界の太極があるからだ、と説きます。

 

(因みにこの辺の詳細(『易学十講』の部分的翻訳)は、北辰会機関誌『ほくと』17号に掲載されています。)

 

 

まあこれは、簡単に言えば何かを陰陽に分ける時に、その基準(境界)を明確に!というお話です。

 

 

そしてこれには、背景として「気一元論」という考え方があります。

 

「気一元論」を含む記事  参照

 

 

「気一元論」は、簡単に言えば「この世界は全て気で出来ているのさ」という考え方です。

 

 

東京大学出版会『気の思想』によれば、「気一元論」という言い方は、特に誰それさんが言い出した言葉、というワケではないようで、古くは『老子』『荘子』『淮南子』の中にもあるっちゃある考え方であり、

 

この考え方を強調したのは、中国では北宋の張横渠(ちょうおうきょ 張載(ちょうさい)ともいう 1020-1077)、日本では伊藤仁斎(1627-1705)が有名だそうです。

 

伊藤仁斎という人物    参照

 

張横渠もせっかくなんでそのうち紹介しましょう。この人は何とあの程顥と程頤(二程子)の叔父さんです。優秀な一族だねえ~~ (゜レ゜))

 

 

荘子の

 

 

・・・因みに、現代中国では大きく気の哲学について3つの流れがあると考えているそうで、

 

1.程伊川と朱子の「性即理」の考え方(客観唯心論、客観的観念論)

 

2.陸象山と王陽明の「心即理」の考え方(主観唯心論、主観的観念論)

 

3.張横渠と王夫之の「気」の哲学(唯物論)

 

とし、3.の唯物論哲学こそ最高のものである、としているそうです。

 

(by 『朱子学と陽明学』島田虔次)

 

(因みに、王夫之気一元論に関してはこの論文が参考になりました。)

 

 

しかしこの、3.の、気一元論を、全くの唯物論と解し、それを最高のものとする考え方と、北辰会の考え方は違います。

 

 

中国哲学、中国伝統医学に通底する「気」という概念は、唯物論でとらえきれるものではない、と考えています。

 

 

北辰会では「気」を唯物論でとらえ、最小精微な物質である、とするのではなく、むしろ生命原理、生命原体ともいうべきものとして、生気論的に理解しています。

 

 

つまり「気」を、物理学(ニュートン力学)の言うような質量を持った存在、と考えるのであれば、それとは認識を異にする、ということです。

 

(といって、量子力学の言うような素粒子とも同じでないと思いますが。)

 

 

・・・ま、「気ってなに??」という問いに対しては、トートロジー的になるけど、10年前に書いたように、「気は気です。」という答えがやっぱベストかな、と。

 

「気」ってなんですか?(その3)    参照

 

 

ここまでの話で言えば、生成論の太極も、場の論の太極も、認識論、存在論における主観と客観も、ぜーんぶただ一つの気の動きの一様態ですよ、ってことですね。

 

 

次回、清代に「気は動きである」この理論を完成させたと言われる戴震(1723-1778)さんを紹介します。

 

 

 

続く。

 

 

 

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「太極」「無極」の意味 3

2019.09.18

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これまでのお話し

 

「太極」「無極」の意味    

「太極」「無極」の意味 2    参照

 

 

さて、続きいきましょう!!

 

 

◆「無極」の意味

 

 

(一社)北辰会の会員諸氏にとって、この「太極」「無極」というパワーワードは、非常に気になるワードでしょう。

 

 

また北辰会の会員以外の先生方も、東洋医学の勉強がある程度進んだら、気になる人は多い筈。

 

 

 

僕がちょうど北辰会にチョロチョロと出入りするようになった2000年代の初頭の頃、蓮風先生はよく「初学者のための太極陰陽論」というテーマで講義なさっていました。

 

(当時は難解で、聴いていてもよく分かりませんでしたが。。。(∩´∀`)∩)

 

 

その講義内容を分かり易くまとめた本が『東洋医学の宇宙―太極陰陽論で知る人体と世界―』です。

 

 

因みにこの本は、堀内齊毉龍先生『弁証論治のための論理学入門』と姉妹編になっていることも見逃せません。

 

 

しかも、蓮風先生の御尊父である藤本和風先生「無極会」という勉強会を主催されていたことでも知られています。

 

(残念なことに、無極会は現在はありませんし、無極会としての著作も残っていません。。。)

 

 

・・・まあそんな訳で、このワードは藤本家、北辰会が非常に大事にしていることが分かります。

 

 

東洋医学の考え方を理解していくうえで、また、北辰会方式を習得していくうえで、妙に気になる、この「太極」「無極」に対する理解というのは、

 

根本哲学に関わるという意味で、重要ではないでしょうか。

 

 

前回、北宋代の周敦頤(1017-1073)「無極而太極」という、これまたパワーワードを紹介しました。

 

 

ここで、まずは「無極」について調べてみましょう。

 

 

平河出版社『道教事典』によれば、

 

 

◆無極

 

元来は”極まりない”という意味。

 

『老子』『荘子』『列子』に、無名、無物、無形などとともに、”無”の様態を形容する語の一つとして、哲学的意味を付与されている。

 

「老子」という人物

「荘子」という人物

『荘子』の渾沌のお話

「列子」を含む記事          参照

 

(列子に関しては紹介してなかったですね、良い機会なんで、これも書きましょう!!)

 

 

その後、『易経』の「太極」とともに、”太極=有の原理”、”無極=無の原理”として、より重い意味を持つようになる。

 

『易経』を含む記事    参照

 

 

つまり、有の本源に無を置くという思想から、儒教を超える道家思想、という図式を表現した。

 

道教文献の中にはもちろん”極まりない”という意味での「無極」という使われ方もあるが、主に、”太極の本源としての無極”という用例が目立つ。

 

また、「無極」を、経典そのものや、神仙の名称としても用いている。

 

南宋代の朱子(朱熹 1130-1200)は、無極と太極を同一次元のものとし、ともに「理」の基本的性格を表す語とし、有の次元に無の原理性を取り込んだ。

 

(んー、ここはムツカシー(゜o゜))

 

(以上引用。土田健次郎氏の文章を竹下が抜粋要約補足改変。)

 

 

 

 

・・・まあなるほど、「無極」はもともとは諸家の本に出てくる、極まりない、というほどの意味の言葉だったのが、『易経』の太極(生成論の最初を意味するアレね)と比較検討されていくことで、

 

理解が深まっていき、これも認識論哲学的な、重い意味を持つようになった、と。

 

 

このように、儒家の考え方と道家の考え方というのは、時代時代で接触したり離れたりしつつ、言葉の意味の検討を通じて、切磋琢磨してきた歴史があるようですね。

 

(また、古代中国で、インドから来た仏教を理解するのに、道家や儒家の考え方がその解釈に入っていったことも興味深いですね。)

 

 

まあ、「太極」「無極」という熟語の理解においては、宋代の周敦頤から朱子の流れがやはり決定的であるようで、ここをもう少し理解するためには、

 

朱子学における「理」の意味を少し掘り下げて理解した方がいいように感じます。

 

 

 

続く

 

 

 

【参考文献】

 

『道教事典』平河出版社

 

 

 

 

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刺激量の問題 ④(置鍼か単刺か。)

2019.06.15

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これまでのお話し

 

刺激量の問題 ①  

刺激量の問題 ②    

刺激量の問題 ③          参照

 

 

 

◆置鍼か単刺か。  つづき

 

 

前回お話ししたように、北辰会方式はキホン一本鍼。

 

 

刺激は少なく、効果は大きく、一本一本の意義を明確に、説明を丁寧に、慰安でなく、徹底した治療のための鍼を、ということあたりを追求していった結果として、

 

私がたどり着いたのは、北辰会方式でした。

 

 

・・・でもこの一本にも、また色々ある。

 

 

単純に証の虚実に合わせて、随証的に補か瀉か、という問題以外にも、置鍼するのか、単刺なのか、速刺速抜なのか、手技を加えるのか、などなど。

 

「弁証論治」って何ですか?

証を絞り込む

「虚実」って何ですか? 

補瀉               参照

 

 

刺激量の問題 ②で述べたように、刺さないで触れるのみとか、翳すのみ、というパターンもある。

 

 

北辰会方式では基本的には江戸期の杉山流で言われるような手技だったり、中医学で言われるような複雑で芸術的な補瀉手技を加えず、四診の結果、

 

よーく吟味して一穴を選んだ後、そこに目的の刺入深度まで独特の刺鍼法(撓入鍼法)で刺鍼したら、あとはほとんど、置鍼するのみです。

 

 

これは、術者間でのバラつきを出来るだけなくし、医療としての定量化を図る、という狙いがあります。

 

 

手技に拘っていくと、当然ながらよりエレガントなテクニックの追求合戦になっていき、手先の器用な人とそうでない人の間で、大きく治療効果の分かれる治療方式になってしまいますよね。

 

 

それでは結果的に使い手の範囲が狭まります。

 

 

みんなで共有する治療方式としては、結果的に価値の低いものになってしまいます。

 

 

他にも、このことの背景には、老子の言う「無為自然」的に、気を動かす治療上、あまり作為的に手技を加えない方が、かえって患者さんの「治る力」は大きく動く、

 

という蓮風先生の御考えもあるようです。

 

「老子」という人物

「無為自然」を含む記事 参照

 

 

いずれにせよ、結果的に置鍼が基本です。

 

 

でも、置鍼にも置鍼時間があるし、置鍼せずに「単刺」という手法を用いる場合もある。

 

 

また長くなってしまった。。。(^^;)

 

 

 

続く

 

 

 

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「五行」のはたらき 3

2019.04.20

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これまでのお話し

 

「五行」って何ですか?(その8) 

「五行」のはたらき 1 

「五行」のはたらき 2          参照

 

 

 

◆稼穡とは

 

 

まず、土の働きである「稼穡(かしょく)」というのは、学生さんにとっても覚えにくい、現代ではなかなか使わない言葉なんですが、

 

「稼」=穀物を植える

 

「穡」=穀物を穫り入れる

 

という意味であり、まさに農業そのもの、といった意味です。

 

 

 

古代中国は、もちろんながら農耕民族、農耕文化であり、

 

「土≒農業する場」

 

であったわけです。

 

 

 

日本でも、平安時代の仏教説話集である地蔵菩薩霊験記に、

 

「稼穡は皆万民の命を重くするところ天下の重宝なり」

 

と出てくるそうですし、

 

「土≒農業する場」

 

という理解、設定には、何ら違和感はなかったでしょうね。

 

『精選版 日本国語大辞典』参照)

 

 

 

因みに、魏の宋均の注である、『春秋』の緯書(※)である『春秋元明苞』では「土=吐」と説明し、後漢の許慎の『説文解字』では「生きてるものを吐き出す」と説明し、

 

「土」という文字に含まれる「二」は大地の表面と地中を示し、「|」は生命が地中から地表に芽を出している姿、と説明しています。

 

(※)・・・漢代、儒家の経書を神秘主義的に解釈した書物。

 

 

まあつまり、大地(土)は、気をたっぷりと蓄えており、様々なものを生み出す場だよ、と。

 

 

 

故に「土は万物の母」であると言われたりもします。

 

(因みに『老子』の第一章に「万物の母」という言い方が出てきますが、これは五行の土の働きを言ったものではなく、天地そのもの(宇宙)のことを言っています。)

 

「老子」という人物    参照

 

 

 

老子第一章の「万物の母」と五行の土の「万物の母」を絡ませた説明では、この論文が面白かったですね。

 

 

 

 

土は万物の母であり、方位(空間)では中央に位置し、季節(時間)では各季節の終わりと始まり(土用)、あるいは日本では梅雨と秋雨の時期(※)を指します。

 

((※)・・・『内経気象学入門』P37~参照。『黄帝内経』の諸篇では”長夏”といって6月に土があてられていますが、これは日本の気候とは必ずしも一致しません。)

 

 

 

つまり自然界の中で、中心であり、キーであり、緩衝材であり、バランサーであり・・・、行き過ぎない状態をもって良しとします。

 

 

 

人間の生命で言えばまさに「胃の気」ですね。

 

胃の気の脈診⑧ 衝和と弦急の脈    参照

 

 

 

東洋医学的に細かく言えば、臓腑経絡では脾の臓(足太陰脾経)と胃の腑(足陽明胃経)であり、経穴では陰経の兪原穴、陽経の合穴が配当されます。

 

脾・胃    参照

 

 

 

五行の土(どろ)が配当されている臓腑経絡、経穴に鍼灸をする時、一つには

 

「土気を動かしている」

 

という意識を持って、効果を観察するといいと思います。

 

 

 

たとえばよく使う「天井穴」とかね。(゚∀゚)

 

 

 

続く。

 

 

 

 

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テキトーさの大事

2018.12.25

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世間は「滅裏威 苦理済ます(゚∀゚)」と浮かれる中、

 

慎重さの大事

大胆さの大事

 

という記事を書いた。

 

 

自分が成し遂げたいものごとを、戦略的に進めて、うまくいったときの達成感、満足感、あの感じが好きだ。

 

 

一生懸命やったが、結果的に失敗して悔しい感じ、反省を迫られる感じ、あれも嫌いじゃない。

 

 

全力を尽くしたならば、爽やかな負けだ。

 

 

命まで取られるわけではない。

 

 

それらとは逆に、煩わしいのが嫌いだ。

 

 

メンド臭いのが嫌いだ。

 

 

粘着体質が嫌いだ。(笑)

 

 

・・・で、精神を衛生的に、こういうのをうまいことやっていくには、「テキトーさ」も大事だ。

 

 

これは、何でもいい加減にダラダラやるという意味ではない。

 

 

メリハリをつける、ということ。

 

 

「いい塩梅」を追求する、ということ。

 

 

そのためには、どうでもいいことは「テキトー」に、大事なところではある意味「偏嗜狂的に」細かく、という心掛けが大事だと思う。

 

 

力は抜くところで抜かないと、どこかでボキッといく。

 

 

緊張した分だけ、弛緩が必要ということ。

 

 

「堅強なる者は死の徒、柔弱なる者は生の徒」  by 老子

 

 

 

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「理」の意味 2

2016.07.30

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前回のお話・・・

 

「理」の意味       参照

 

 

では続きいきましょう。

 

 

◆「理」の意味

 

 

wikipediaによれば、

 

「理」とは、中国哲学に出てくる概念。

 

(仏教用語としても出てくるそうで。)

 

本来、「理」は文字の意味から言うと、璞(あらたま:まだ磨いてない玉)を磨いて、美しい模様を出すことを意味するそうで、

 

そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。

 

もともと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになったと言います。

 

それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになったと。

 

 

・・・一先ずなるほど。

 

(要点を抜粋して引用しています。)

 

 

中国哲学に出てくる概念と言っても、「理」という文字の出典は、孔子の『論語』や、『老子』には出て来ず、『孟子』の中に一か所「条理」とあるのみなんだそうで、

 

『荘子』『荀子』『韓非子』『淮南子』『墨子』あたりに頻出する文字なんだそうです。

 

因みにこれらについては、過去記事

 

「孔子」という人物

「老子」という人物

「孟子」という人物

「孟子」という人物 2

「孟子」という人物 3

「荘子」という人物

「荀子(じゅんし)」という人物

「荀子」という人物(その2)   参照

 

 

・・・そう言えば、韓非子、墨子、淮南子についてまだ書いて無かったねえ。

 

 

これもそのうち書きましょう。

 

 

蓮風先生もよく仰ることですが、中国伝統医学を理解する上で、古代中国哲学への理解は重要。

 

 

つまり、いわゆる諸子百家思想を知ることは重要です。

 

 

まあこれを見ると、「理」儒家、道家双方において、重視されてきた考え方であるということが分かります。

 

 

 

続く

 

 

 

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補瀉 49

2016.04.22

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これまでのお話・・・

 

 

補瀉 1 補瀉の定義と『黄帝内経素問』離合真邪論(27)の補法 

補瀉 2 『黄帝内経素問』調経論(62)の補法

補瀉 3 『黄帝内経霊枢』終始萹(9)の補法

補瀉 4 『黄帝内経霊枢』官能萹(7)の補法

補瀉 5 『黄帝内経霊枢』邪客萹(71)の補法

補瀉 6 『黄帝内経霊枢』小鍼解篇(3)の補法

補瀉 7 『黄帝内経霊枢』邪気蔵府病形篇(4)の補法

補瀉 8  『黄帝内経素問』刺志論(53)の補法

補瀉 9  『黄帝内経霊枢』終始萹(9)の瀉法

補瀉 10 『黄帝内経霊枢』小鍼解萹(3)の瀉法

補瀉 11 『黄帝内経素問』八正神明論(26)の瀉法

補瀉 12 『黄帝内経素問』調経論(62)の瀉法

補瀉 13 『黄帝内経素問』刺志論(53)の瀉法

補瀉 14 『黄帝内経素問』離合真邪論(27)の瀉法

補瀉 15 『黄帝内経』の補法まとめ

補瀉 16 『黄帝内経』の瀉法まとめ

補瀉 17 『難経』71難における補瀉

補瀉 18 『難経』76難における補瀉

補瀉 19 『難経』76難における補瀉の続き

補瀉 20 『難経』78難における補瀉

補瀉 21 『難経』79難における補瀉

補瀉 22 『難経』における補瀉まとめ

補瀉 23    孫思邈(そんしばく 541~682)の『備急千金要方』『千金翼方』の補瀉

補瀉 24   金代、何若愚 撰『子午流注鍼経』における補瀉

補瀉 25     金代、竇漢卿『針経指南』における補瀉

補瀉 26     明代、楊継洲(1522-1620)『鍼灸大成』における補瀉

補瀉 27     明代、楊継洲(1522-1620)『鍼灸大成』における補瀉 その2

補瀉 28   明代、楊継洲(1522-1620)『鍼灸大成』における補瀉 その3

補瀉 29     明代、李梃『医学入門(1575)』における補瀉

補瀉 30   明代、高武『鍼灸聚英(1529)』における補瀉

補瀉 31   現代中医学における補瀉

補瀉 32     日本における補瀉の受容

補瀉 33    『針道秘訣集』における補瀉

補瀉 34    『杉山真伝流』における補瀉 1

補瀉 35  『杉山真伝流』における補瀉 2

補瀉 36     永田徳本(1513?-1630?)『鍼灸極秘伝』『徳本多賀流針穴秘伝』の補瀉

補瀉 37   『杉山流三部書』における補瀉 

補瀉 38     岩田利斉『鍼灸要法』における補瀉

補瀉 39    岡本一抱『鍼灸抜萃大成』における補瀉 

補瀉 40    本郷正豊『鍼灸重宝記』における補瀉 

補瀉 41  菅沼周桂(1706-1764)『鍼灸則』における補瀉 

補瀉 42  石坂宗哲(1770-1841)『鍼灸茗話』における補瀉 

補瀉 43  坂井豊作(1815-1878)『鍼術秘要』における補瀉 

補瀉 44   澤田流における補瀉 

補瀉 45  柳谷素霊先生、経絡治療学会における補瀉 

補瀉 46 北辰会における補瀉

補瀉 47 北辰会における補瀉 2

補瀉 48 北辰会における補瀉 3          参照

 

 

では続きいきます!!

 

 

◆北辰会の補瀉は、何故ほとんど手技を使わないのか その3(練達自然と無為自然)

 

 

前回、北辰会がほとんど補瀉手技を使わないのは、老子の「無為自然」という考え方に基づいている面がある、というお話をしました。

 

 

しかし、鍼灸治療においての「無為自然」というのは、素人が、ただ何も考えず、ワケも分からずする、という意味ではありません。

 

 

徹底的で的確な診察診断(四診)と、徹底的な学術の鍛錬、修行を踏まえた上で、「無為」を志向しよう、ということなのです。

 

 

ですから老子ではなく荘子の言う「練達自然」を踏まえての、「無為自然」です。

 

 

修行、練習を十分にやった上での自然、これを「練達自然」と言います。

 

(因みに練達自然については、『荘子』養生主篇 第三の庖丁のお話を参照してください。)

 

 

荘子についてはこのブログでも以前紹介しました。

 

「荘子」という人物

『荘子』の渾沌のお話   参照

 

 

ここを変にカン違いして、

 

「北辰会の鍼は手技を使わないから、手指の不器用な俺に向いてるわーー(*‘∀‘)」

 

とか、浅薄かつ短絡的に考えた人は、まあドボンです。(笑)

 

 

失敗のマザーです。(笑)

 

 

結末は見えていると言ってもいい。(゜レ゜)

 

 

蓮風先生は常々、

 

「鍼をするには指の力が重要なんだ!」 

 

と仰り、弟子と指での押し合いをよくやっています。

 

 

また過去には、 ”硬物通し”と言って、堅いものを捻鍼で貫く練習を重ね、ついには鹿の頭蓋骨を刺し抜いたという逸話もあります。

 

 

このように、十二分に修行したうえでの「無為自然」なのであって、ただ適当にやるのとはワケが違います。

 

 

ですので、鍼を練習し始めたら、まずは今生体に気が集まっているのか散っているのか、そういう「鍼先の感覚」というものをしっかりと認識できるようになることがまず第一歩で、

 

次に、捻鍼や雀啄を加えるとそれがどうなるか、とか、そういう練習を重ねることが重要で、そこで身に付いたものは、決して無意味ではありません。

 

 

むしろ非常に大事なことです。

 

 

今年の関東支部の実力強化合宿「順雪会」でも、硬物通しの練習をしました。

 

 

こういうことを大事にする姿勢を忘れないことは、非常に大事です。

 

 

蓮風先生や、北辰会のそれ以外の幹部の先生方の臨床を見ていても、刺鍼後に微妙に手技を加えている場合は、実際にあります。

 

 

もちろん理想は「無為自然」であるけれども、臨床ではどんな場合であっても、そうやって気の動きを絶妙に調整(補瀉)することが出来るかどうか、

 

これが重要なのです。

 

 

ただその手技を加える際(瞬間)に、作為的にやるのではなく「体が勝手にそう動いた」、その結果として、気が正しく動いた、

 

そういう世界に至ることが重要なんだと思います。

 

 

鍼に限らず、多くの、その道のプロ、一流の仕事というのは、そういうものだと思います。

 

 

簡単ですが、北辰会の補瀉は以上です。

 

(医易学的な補瀉に関しては、長くなるんで、そのうち気が向いたら書きましょう。)

 

 

・・・まあ、臨床家は結果責任、どんな美辞麗句、理想論を述べたとしても、治せなかったらそれは単に「ヘタ」だっちゅうことです。

 

 

蓮風先生のお父様である和風先生が、よく仰っていたそうです。

 

「治せる者が医者なんだ、治せない者は医者ではない。治せないなら、医者を辞めた方が人助けだ。」

 

と。

 

(キビシー( ゚Д゚))

 

 

 

 

さて、いよいよこの補瀉に関して、私なりの、今現在における考え、結論を述べて終わりたいと思います。

 

 

 

続く

 

 

 

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補瀉 48

2016.04.21

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これまでのお話・・・

 

 

補瀉 1 補瀉の定義と『黄帝内経素問』離合真邪論(27)の補法 

補瀉 2 『黄帝内経素問』調経論(62)の補法

補瀉 3 『黄帝内経霊枢』終始萹(9)の補法

補瀉 4 『黄帝内経霊枢』官能萹(7)の補法

補瀉 5 『黄帝内経霊枢』邪客萹(71)の補法

補瀉 6 『黄帝内経霊枢』小鍼解篇(3)の補法

補瀉 7 『黄帝内経霊枢』邪気蔵府病形篇(4)の補法

補瀉 8  『黄帝内経素問』刺志論(53)の補法

補瀉 9  『黄帝内経霊枢』終始萹(9)の瀉法

補瀉 10 『黄帝内経霊枢』小鍼解萹(3)の瀉法

補瀉 11 『黄帝内経素問』八正神明論(26)の瀉法

補瀉 12 『黄帝内経素問』調経論(62)の瀉法

補瀉 13 『黄帝内経素問』刺志論(53)の瀉法

補瀉 14 『黄帝内経素問』離合真邪論(27)の瀉法

補瀉 15 『黄帝内経』の補法まとめ

補瀉 16 『黄帝内経』の瀉法まとめ

補瀉 17 『難経』71難における補瀉

補瀉 18 『難経』76難における補瀉

補瀉 19 『難経』76難における補瀉の続き

補瀉 20 『難経』78難における補瀉

補瀉 21 『難経』79難における補瀉

補瀉 22 『難経』における補瀉まとめ

補瀉 23    孫思邈(そんしばく 541~682)の『備急千金要方』『千金翼方』の補瀉

補瀉 24   金代、何若愚 撰『子午流注鍼経』における補瀉

補瀉 25     金代、竇漢卿『針経指南』における補瀉

補瀉 26     明代、楊継洲(1522-1620)『鍼灸大成』における補瀉

補瀉 27     明代、楊継洲(1522-1620)『鍼灸大成』における補瀉 その2

補瀉 28   明代、楊継洲(1522-1620)『鍼灸大成』における補瀉 その3

補瀉 29     明代、李梃『医学入門(1575)』における補瀉

補瀉 30   明代、高武『鍼灸聚英(1529)』における補瀉

補瀉 31   現代中医学における補瀉

補瀉 32     日本における補瀉の受容

補瀉 33    『針道秘訣集』における補瀉

補瀉 34    『杉山真伝流』における補瀉 1

補瀉 35  『杉山真伝流』における補瀉 2

補瀉 36     永田徳本(1513?-1630?)『鍼灸極秘伝』『徳本多賀流針穴秘伝』の補瀉

補瀉 37   『杉山流三部書』における補瀉 

補瀉 38     岩田利斉『鍼灸要法』における補瀉

補瀉 39    岡本一抱『鍼灸抜萃大成』における補瀉 

補瀉 40    本郷正豊『鍼灸重宝記』における補瀉 

補瀉 41  菅沼周桂(1706-1764)『鍼灸則』における補瀉 

補瀉 42  石坂宗哲(1770-1841)『鍼灸茗話』における補瀉 

補瀉 43  坂井豊作(1815-1878)『鍼術秘要』における補瀉 

補瀉 44   澤田流における補瀉 

補瀉 45  柳谷素霊先生、経絡治療学会における補瀉 

補瀉 46 北辰会における補瀉

補瀉 47 北辰会における補瀉 2          参照

 

 

では続きいきます!!

 

 

◆北辰会の補瀉は、何故ほとんど手技を使わないのか その2(無為自然)

 

 

補瀉という考え方は、『黄帝内経』の中に貫かれ、数千年に渡る鍼灸医学の中にずーっと貫かれていると言っていい、とても重要な考え方です。

 

 

蓮風先生もかつては、この考え方の淵源は、「孫子の兵法」で有名な『孫子』の虚実萹がもとになっているのだと認識しておられたようです。

 

孫子の兵法 参照

 

 

すなわち、戦(いくさ)です。

 

 

病を、邪気と正気の戦ととらえ、

 

正気を集める、すなわち味方の兵を集めて援軍を送るのが補法、

 

邪気を散らす、すなわち敵軍を積極的に蹴散らすのが瀉法、

 

という考え方です。

 

 

これにも、もちろん一理ありますし、このことは、北辰会が少数鍼治療であることの理由でもあります。

 

(鍼をたくさん打って、むやみに戦線を広げずに、一極集中で確実に勝っていく方法、という意味で。)

 

 

しかし、諸子百家の勉強を進める中で、『老子』77章に、

 

「天の道は余り有るを損じて、而して足らざるを補う。」 

 

とあることに、思うところがあったそうです。

 

 

蓮風先生はこのように、東洋医学は人間学であるから、鍼を持つ者は、あらゆる宗教、哲学、諸子百家思想に、人間理解の論理を学ぶべきだ、

 

と、若い頃から繰り返し説いています。

 

 

老子の思想の根幹部分は何と言っても「無為自然」です。

 

「老子」という人物 参照

 

 

『老子』37章にこうあります。

 

 「道常無為、而無不為」

 

(道(タオ)は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている)

 

「道教」って何ですか?(その16)

「道家思想(どうかしそう)」って何ですか?  参照

 

 

東洋医学は、「整体観」といって、人体も含めて、この自然(宇宙)は完璧に整った統一体である、という考えに基づいています。

 

「整体観」って何ですか? 参照

 

 

人間が生理的で健康な状態、というのは、完璧に整った状態、完成品と定義しているわけです。

 

 

そして、その完璧なバランスが崩れてしまっているのが、我々の言う「病」であるわけで、もともと完璧な統一体(整体)であるからこそ、

 

そこには「治る力(正気)」が備わっている訳なので、鍼灸や漢方薬で「気」を動かし、崩れた人体のバランスを整える(完璧に近づける)ことで、

 

その「治る力」を最大化せしめるのが「治療」なのだ、という考えなのです。

 

 

そして、もともと完璧な自然、整体である人体の「治る力」をより最大化するには、あまり人為的で、作為に満ちた鍼をするよりも、

 

自然に逆らわないように、作為を排した、無為自然的な鍼をした方が、より大きな気の動きを得ることが出来るのではないか、

 

と考えるに至ったようです。

 

 

これが、現在では手技をほとんど使わない、大きな理由の2つ目。

 

 

ただ、無為自然というのは、ただ何も考えずにボケーッと鍼をすることではないし、北辰会は、補瀉における手技を全く否定しているわけでもない。

 

 

 

その話を次回。

 

 

 

続く

 

 

 

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東洋医学と「唯物論」「非唯物論」

2015.03.27

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今日は哲学的なお話。

 

 

まあ哲学なんて、とんでもない膨大、莫大な学問分野であり、僕なんてズブの素人なんですが、東洋医学を実践する上では、避けて通れない問題なので、

 

たまには自分なりに考えてみました。

 

 

西洋医学では、

「人体は、60兆個の細胞の集まり」

と、説きます。

(因みに近年では37兆個説が定説となっているようです。まあ、個人的にはどうでもいいが。。。)

 

 

この立場から、さらに細かく考えれば、人体も、人間を取り巻く大自然もみんな、原子、電子、分子、つまり物質と、その物質間に働く電磁力の集合体、と考えられます。

この立場からすれば、我々の精神、意識の活動(喜怒哀楽などなど)なんてのは、単に脳の特定部位の神経細胞の興奮(活動電位)の結果、ということになりますし、

 

あらゆる自然現象は全て物質の移動、変動、電位変化の観察により解析可能なのではないか、ということになります。

 

 

また、この立場からすれば、「生命」というのは遺伝子を自己複製する精巧なシステムであり、「死」はそのシステムの活動停止である、となり、

 

神仏?霊魂??気や経絡???・・・んなもんないっしょ、って話になります。

 

・・・とまあこのように、この世の森羅万象の根本は「物質(素材的なもの)」である、とする考え方を、「唯物論(ゆいぶつろん、Materialism)」と言うそうです。

 

 

因みに、その物質の集合体である生命も、そこに働いている物理的法則が分かればすべて理解可能、というスタンスを「生命機械論」と呼んだりします。

 

北辰会が治療方式の用語と理論のベースに置いている、中華人民共和国が1950年代にまとめあげた「中医学」というのも、この「唯物論」の考え方でもって、

 

それまでの中国伝統医学をまとめた医学であります。

 


さてここで、数千年の歴史を持つ、「東洋医学(中国伝統医学)」の深遠な世界が、この「唯物論」でもってすべて把握できうるか、説明できるか、

 

本当の意味で「東洋医学的に」人間を診る医学として、その理解は正当か、という問題になると、かなり疑問が残る、という話を、随分前にしました。


東洋医学と中医学 参照


(もう、あの記事から5年も経つのか・・・。( ゚Д゚))

 


じゃあもし、「唯物論」では東洋医学が表現、理解しきれないとすれば、どういう考え方ならば出来るのでしょうか。

 


唯物論の対義語として、

「観念論(かんねんろん、Idealism)」

とか

「唯心論(ゆいしんろん、Spiritualism)」

という言葉があるそうです。

 


「観念論」は、事物の存在と存り方は、事物よりも認識主体側の、当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方であり、

 

物質よりも精神、理性、言葉に優位性を置く理論のことだそうです。

 

「唯心論」は人間・社会において、心、もしくはその働きこそは至上の要因であるとする立場の一つで、心やその働きは、あくまでも物質に還元されない独特な性質を持っているとして、

 

物質的存在がその存在を容認されるのは、「意識」によるものである、したがって、意識こそが存在を決定づける、という論だそうです。

 

観念論も唯心論も、唯物論に対する言葉だそうで、要は「非」唯物論なのでありますが、観念論と唯心論は同義ではなく、

観念論は認識論(哲学の分野で、人が理解できる限界について考察する学問)における考え方

 

であり、


唯心論は存在論(哲学の分野で、存在するものの意味や根本規定を考察する学問)における考え方

 

なんだそうです。

 


東洋医学の背景にある古代中国の自然哲学では、大宇宙も、小宇宙である人間も、すべて「気」から出来ている、と考えます。


(これを”気一元論”と言います。)

 

そして、宇宙の開闢については、無(太極)から陰陽(両儀)が生まれ、それがさらに陰陽に分かれ(四象)、さらに分かれ(八卦)、という風に分化して万物が成った、と考えます。

(by『易経』繋辞上伝

 


また、

「道は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生ず」

という考え方もあります。

(by『老子』42章

 

因みにこの『易経』『老子』と同じような考え方は、『淮南子』天文訓にも出てきます。

 

 


まずこのような、大枠としての自然観、宇宙観、宇宙生成論が前提としてあり、その中にある、小宇宙たる人間、という風に説きます。

 

 

ここに出てくる「気」や「太極」や「道」といった考え方を、「物質が根本」という考え方で説明しきれるでしょうか。

 

 

中国伝統医学は、人間を、大宇宙と相似性、同一性を持ち、なおかつ大宇宙と常に連関する存在、という風に考えますが(天人合一思想)、それについても、

 

いわゆるニュートン物理学の言うような、質量を持った物質」における物理法則の範疇で理解可能でしょうか。

 

 

中国伝統医学は、もともと、そういう独特な考えでもってとらえた「人間」「患者」に対する、最良の医学医療はどうあるべきか、という風に考えを進めて、

 

悠久の歴史の流れの中で、絶え間ない臨床実践(ある意味人体実験)を繰り返す中で、永久不変の真理としての実効性、普遍性、再現性を備える形で、

 

少しずつ、でも堅実に、堅牢に構築され続けてきたものであるとすると、現代的な唯物論で説明するよりも、本来は”非”唯物論で解釈した方が、

 

より正確に理解が出来そうな気がしてきます。

 

現状において「現代中医学」が世界中の東洋医学教育のグローバルスタンダードになっているからと言って、こういう根本哲学に関わる部分まで、

 

まったく無批判に、悪く言えば盲信的に受け入れていては、問題が生じるのではないか、というのが、北辰会の立場です。

 

 

中国伝統医学を理解するにあたって、「唯物論」に対して「観念論」的、「唯心論」的で、さらには、それらをもすっぽりと包むように「気一元論」的に解釈し、

 

「生命機械論」に対して「生気論」的に解釈しようとする姿勢を重視しています。

 

(だから臨床実践において”直観”とか”魂”というものを、論理と同じかそれ以上に重視している訳ですね。)

 

日本という国は、いつの時代も、大陸から流入した新しいものを、自国の風土や価値観と見事に習合させ、ピューリファイ(精錬、純化)してきた歴史があります。

 

 

中医学に対しても、日本人としてはそうあるべきではないでしょうか。

 

 

この問題については、私もまだまだ理解が浅いですが、一生かけて、もっともっと深く考えていかないと、と思っています。

 

 

 

【参考文献】

 

『哲学事典』平凡社

『哲学・思想事典』岩波書店

『詳解 中医基礎理論』東洋学術出版社

『気の思想』東京大学出版会

『鍼灸医学と古典の研究 丸山昌朗東洋医学論集』創元社

『医学の哲学』誠信書房

 

 

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漢方医学研究会

2014.09.30

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9.28の午後は、九段下で行われた「漢方医学研究会」に参加してきました!!

いくつかの講演と、いくつかの症例発表を聞いてきましたが、色々と思うところがありました。

漢方を中心に取り扱う薬剤師の先生方は、我々鍼灸師のように、体表に触れて判断することが、法律上、なかなか難しいようです。

だから、「問診」を中心に東洋医学的な判断していくしかない。

これでは大変だろうなあ、と思います。

あと、今回の研究会では「口訣(くけつ)」というものがテーマになっておりましたが、その道の大家が、近しい弟子にのみ伝えたと言われる、

この「口訣」というものを、実際に患者さんにやってみて、そのデータを取って、有効性が確認できるものは有用性あり、

その師匠の口訣は間違っていなかった、と判ずることも、大事かもしれないけれども、僕的には、その師匠がなぜその口訣を伝えるに至ったか、

その理論的背景を云々することの方が重要なんじゃないかと思いました。

師匠がこう言っていて、それをやってみると実際にいいから使ってる、というのでも、まあいいんだけど、それでうまくいく場合と、

いかない場合というのが必ず存在するわけで、それをどう理解するのか、ということの方が重要だと思うワケです。

講演の中にあったように、かの老子だって、”道(タオ)”というものを伝えるのにあたって、言葉で言うだけは言うから、

あとはそっちで考えてね、という態度なわけです。

だから要は、何を、どんないいことを教わったって、結局教わった側が、”考える”ということをしないとダメなんです。

”リテラシー”です。

 


「老子」という人物
「リテラシー」という言葉 参照

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