東洋医学 伝統鍼灸 清明院

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柳谷素霊という人物

2016.04.17

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先日、墓マイラー 15という記事を書きました。

 

 

今日はその時墓参した、柳谷素霊先生(1906-1959)を紹介します。

 

 

 

 

素霊先生は1906年(明治39年)、青森に生まれました。

 

 

1923年(大正12年)、18歳で鍼灸師免許を取得。(千葉県)

 

 

1927年(昭和2年)、 22歳で日本大学法文学部宗教科に入学し、同時に、素問と霊枢から一字ずつ取って”素霊”と号して、素霊鍼灸塾を創設する。

 

(早い!!そしてこの号から、志の高さが読み取れますね。)

 

 

1931年(昭和6年)、25歳で東京、両国の東京鍼灸医学校の教頭となり、機関誌『東京鍼灸医学誌』を発行する。

 

(精力的ーー!!(*‘∀‘))

 

 

1934年(昭和9年)、29歳で日本漢方医学会を結成、翌年、日本高等鍼灸学院を創設。

 

 

1937年(昭和12年)、32歳の時、拓殖大学漢方医学講座が始まり講師となる。

 

 

翌年、日本高等鍼灸学院の同窓会誌『蓬松』(1937年5月創刊)を引き継ぎ、戸部宗七郎氏によって、『医道の日本』として創刊される。

 

(業界では有名な業界誌『医道の日本』も、もとは素霊先生なんです。)

 

 

この頃、東亜医学協会の理事となる。

 

 

1940年(昭和15年)、35歳の頃に、「古典に還れ」をスローガンに、岡部素道、井上恵理ら古典鍼灸研究会を創設。

 

 

1943年(昭和18年)、38歳の頃に、日本鍼灸医術研究所が結成され、顧問となる。

 

 

日本鍼灸医術研究所とは、所長に駒井一雄医師、副所長に竹山晋一郎、主任に本間祥白といった、当時の業界の錚々たる面々で構成された団体であったが、当時戦況は日に日に悪化し、活動は苦難に満ちたものであった。

 

またこの頃、優秀な弟子である岡部素道に『霊枢』、井上恵理に『難経』、小野文恵に『鍼灸重宝記』を研究するように指導した。

 

 

1945年(昭和20年)、40歳の時に空襲により治療所兼住宅が全焼。札幌に移住。

 

 

1947年(昭和22年)、42歳の時、東京、飯田橋の大村誠氏宅で日本高等鍼灸学院を再開。

 

 

1949年(昭和24年)、44歳の時に拓殖大学付属正明高等学校理療科(後の東洋鍼灸専門学校)科長に就任。

 

 

1955年(昭和30年)、50歳の頃にフランス国際鍼学会の招聘により渡欧し、フランス、ベルギー、西ドイツの学会で日本の古典鍼灸術を紹介し、フランス、パリ鍼学会顧問に就任。

 

 

1957年(昭和32年)、52歳の頃、新宿に東洋鍼灸専門学校を創設、初代校長に就任。

 

 

1959年(昭和34年)2月20日に東京逓信病院にて、永眠。54歳。

 

 

東洋鍼灸専門学校を創立した直後であり、二度目の渡欧を目前に控えた、あまりにも早すぎる死でした。

 

 

 

 

・・・とまあ、輝かしいというか、太く短く、非常に精力的、情熱的で、激しい人生を送った先生です。

 

 

素霊先生が残した功績とメッセージは、没後50年以上が経った現代においても、極めて鮮烈なものであり、現代でも知らない鍼灸師は少ないでしょう。

 

 

何故若くして、ここまでの大仕事をやってのけたのか、やってのけることが出来たのか、また、そもそもなんでそれを志したのか、そのあまりにも膨大なエネルギーの源泉は、

 

私には分かりませんが、素霊先生の御父様(名前は清作)は鍼灸をやっており、お母様(名前はかし)は祈祷師のようなことをやっていたようですが、

 

その辺の家庭環境と、何か関係があったのかなあ、という感じです。

 

(詳しい方、教えてください!!<m(__)m>)

 

 

そして、素霊先生と北辰会は微妙に縁があります。

 

 

素霊先生が島根県、出雲の鍼灸師会でモデル患者に対して実技デモをやった時、 その主催者側に、蓮風先生のお父様である藤本和風先生がおられ、そのモデル患者を、柳谷先生が触る前に和風先生が診ており(治療はしていないそうです)、

 

その患者に対する診立てが素霊先生と一致していた、という逸話があります。

 

 

そのモデル患者さんは五十肩のような、上肢が挙がらない患者さんだったらしいですが、柳谷先生はそれを「大腸の弱り」と診断し、足の復溜という経穴と、手の合谷という経穴を使って、

 

その場で見事に治してみせたそうですが、その後に和風先生が素霊先生に、

 

「この症例は気海一穴か大腸兪一穴ではイケませんでしたか?」

 

と問うと、素霊先生はシブい顔をされていたという、僕らからすればワクワクするようなエピソードがあったそうです。 (笑)

 

 

また、素霊先生の有力なお弟子さんの一人である小野文恵先生が、後になって主宰されていた「東方会」の機関誌『東方医学』に、若い頃(まだ20代?)の蓮風先生が、

 

和風先生とともに座談会に出席したり、いくつか論文を投稿したりしています。

 

(因みにこの雑誌、『東方医学』で編集長をやっていたのが、後の積聚会会長、小林詔司先生だったりします。(笑))

 

 

そして、つい数年前ですが、蓮風先生による特別講演が、東洋鍼灸専門学校で実現したことがありました。

 

 

諸事情により、二回も中止になったのですが、三度目の正直で実現しました。

 

 

その懇親会の席で、蓮風先生のところに、素霊先生のお弟子さんであった宮入隆博先生が挨拶に見えたときに、蓮風先生が

 

「素霊先生は私の心です。」

 

と仰っていたのが非常に印象的でした。

 

 

歴史の重みと連続性、鍼灸に命を懸けた先哲の人生、シンプルに”尊敬する”とか言っちゃうと、なんか空々しい感じもするけど、まあー、その情熱に感動しますね。

 

 

私も、東洋鍼灸専門学校で講義をする時にいつも心がけていることとして、

 

「教室の一番後ろに柳谷素霊先生が立って聴いていると思って喋る」

 

というのがあります。

 

 

 

こう考えて喋ると、気合が入ります。

 

 

 

◆参考文献

 

績文堂出版『評伝柳谷素霊 選集別巻』柳谷素霊選集刊行会編

 

 

 

 

 

 

 

 

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この記事に関するコメント

“柳谷素霊という人物” への2件のフィードバック

  1. 原元氣 より:

    大変読み応えのある記事。感動しました。忙しいのにありがとうございます。竹下先生も素霊先生クラスのパワー持ってますよ。歴史に名を残して下さい!
    因みに、私お世辞は一切言わない人間です。宜しく!

    • seimei-in より:

      原先生

      コメントありがとうございます!!\(^o^)/
      厳しい時代に生きた、スゴイ先輩たちの人生、調べると感動しますね。

      柳谷先生も戦争挟んで学校作ってますしね。
      澤田先生も戦時中に亡くなっていますし。

      僕も全然まだまだですけど、やれるだけ頑張ります☆
      原先生もやりましょう!!

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