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Search Results for: 賀川玄悦

賀川玄悦という人物

2016.01.22

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先日、墓マイラー 14いう記事を書きました。

 

 

今日はその時墓参した、賀川玄悦先生(1700-1777)を紹介します。

 

賀川玄悦 『子玄子産論』 1765年(1859年校正再刻) | 図書

 

(↑↑名古屋大学医学部史料室HPより https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medlib/history/archive/print/1859kagawa.html)

 

 

 

落語家っぽいビジュアルの賀川先生ですが、1700年、江戸時代後期に、槍の達人で、藩士であった父のもとに、彦根藩、今でいう滋賀県に生まれました。

 

 

ただ、婚外子であったため、家を継ぐことは出来ず、7歳の時に農家であった母の実家に出されました。

 

(これ以来、賀川と名乗るようになったそうです。)

 

 

個人的にはこの生い立ちが、後々彼が産科に傾倒していく基盤になっているような気がしてなりません。。。

 

 

玄悦は農家の道には進まず、まずは鍼灸、按摩を学び、後に京都に出て、昼は鍛冶屋(鉄銅機の売買)、夜は鍼灸、按摩をして生活をしながら、産科については独学で学んだそうです。

 

(苦労人の元鍼灸師、いいですね~~)

 

 

40歳の時に、近所の夫人が難産で苦しんでいるのを診た玄悦は、秤の分銅をかける鉤(※)を、死産の際に胎児を引っ張り出す器具として用いることを思いつきました。

 

(※・・・因みに提灯を吊る鉤だったとも言われています。鍛冶屋の経験がある玄悦ならではの発想だったかもしれません。)

 

 

これは後代、鉗子分娩の発明に繋がります。

 

 

江戸時代の出産と言ったら、母子ともに命がけです。

 

 

難産の場合に、胎児を母体から出せないと、そのまま母体にまで影響が及び、最悪、母子ともに死に至ることも珍しくありませんでした。

 

 

玄悦が考案したこの手術(回生術)によって、たとえ死産であっても、母体を救うことには数多く成功したようです。

 

 

このことは当時、いまだに迷信的な信仰が色濃く残っており、産婆が中心となって行っていた出産現場に、積極的に医師が関わるきっかけになったそうです。

 

 

玄悦は50歳の頃、妊娠中期以降の正常胎位は、頭が下であることを唱えました。

 

(今では考えられませんが、当時は臨月まで頭が上であり、陣痛の時に胎児が初めて頭を下に向けて出産される、と考えられていたそうです。)

 

 

このことは、同時期にアメリカの産科医であるスメリーも言っていますが、二人は特に面識があったわけでもなく、玄悦のこの指摘は世界初と言っていいと思います。

 

(・・・まあ、スメリーの考えを参考にしたのでは?という厳しい指摘もあるようですが。。。)

 

 

これ以降、産科に関する臨床と研究をさらに進め、後に”賀川流産科術”と言われる、世界的に有名な産科術の元を作り上げました。

 

 

これが、玄悦が現代産科学の父と言われる理由です。

 

 

1766年、66歳の頃、自身の臨床経験をまとめた『産論』を出版。

 

 

因みにこの本は、漢文が不得手であった玄悦に代わって、当時の大儒者である皆川淇園(Ⅰ735-1807)が書いたことでも有名なんだとか。

 

 

玄悦は1768年、68歳の時には徳島藩医に取り立てられたそうです。

 

 

1777年、78歳で没。

 

 

彼が嚆矢となり、彼の2代目である養子の賀川玄迪(字は子啓)がさらに補い、まとめ直して完成したと言われる「賀川流産科術」は、かのシーボルトによって、ヨーロッパでも広く伝えられました。

 

 

彼の弟子は2000人を超えたと言われ、弟子の仕事も含めたら、救った命は数知れずでしょう。

 

 

彼は弟子に、極力堕胎の手術はしないように、と教えていたそうです。

 

 

当時は避妊の方法も不十分であり、いわゆる”口減らし””間引き”といった、今では考えられないようなことがまかり通っていた時代、彼は命の大事さを、生涯かけて訴えた訳ですね。

 

 

生い立ちからして、何やら人間味あふれる感じがしますね、この先生は。

 

 

 

合掌

 

 

 

◆参考文献

 

近藤出版社『日本史小百科20 医学』服部敏良 P216-217 他

 

 

 

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(一社)北辰会、第14回古典ライブを視聴しました。

2022.10.06

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10.2(日)の朝に行われた、(一社)北辰会会員限定企画である古典ライブ講義を視聴しました!!

 

 

今回も藤本新風代表と、奥村裕一学術部長という、北辰会最強コンビによる、岡本一抱(1655-1716)『万病回春病因指南』を題材とした、「婦人病を学ぶ」というテーマでの講義でした。

 

 

 

 

女性の、社会における在り方、生活様式は、16世紀に中国で『万病回春』が書かれた時代と、現代日本とでは、まったく違います。

 

 

勿論、同じ日本でも、岡本一抱が生きた17世紀の江戸時代とも、まったく違います。

 

 

また、各種の生理用品の発達や、産前産後の医療体制、生活状況などなど、ご婦人特有の生理、病理を巡る環境、医療体制も、まったく異なります。

 

 

しかし、だからと言って、東洋医学が数千年培ってきた、伝統的な婦人科医療に対する考え方を学ぶ必要はないかというと、まったくそんなことはありません。

 

 

現代日本の鍼灸の現場においても、漢方の現場においても、女性特有の諸疾患、諸症状の相談は非常に多く、私の少ない経験からも、東洋医学的なアプローチが非常に有効であることは疑いありません。

 

 

今回は「婦人病を学ぶ」という広いテーマで、婦人病全般に対する往時の見解、また、江戸期の医家による鍼灸配穴など、婦人病の総論的な解説をして頂きました。

 

 

また、以前このブログでも紹介しましたが、江戸期の産科医として有名な賀川玄悦(1700-1777)の話も出ましたね。

 

賀川玄悦を題材にした小説『千の命』、知らなかったので早速ポチりました。笑)

 

 

「賀川玄悦」を含む記事 参照

 

 

なお、婦人科に関しては来月も北辰会で座談会をやるらしく、先日の順天堂と言い、なんか最近、婦人科をテーマにした講義を聴くこと、やることが多い。。。

 

 

これは鍼の神からの、

 

「これを機に婦人科についてしっかり学び直しなさい。」

 

という啓示なのでしょう。

 

 

何か大きな意味があるものと考え、謹んで、ことにあたりたいと思います。

 

 

 

なお、本ライブ配信は北辰会会員限定企画です。

 

 

 

これを機に入会の方はこちらからぜひ!!

 

 

 

 

 

 

 

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日本東方医学会、医鍼薬地域連携研究会(DAPA)に参加してきました!!

2021.05.14

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先日、5.10の夜20時から、日本東方医学会の分科会の一つともいえるDAPA(Doctors, acupuncturists, pharmacists’ association 医鍼薬地域連携研究会)に参加してきました!!

 

(20時から21時までの短時間のオンライン講座です。)

 

 

この研究会では、医師と鍼灸師を中心に、その他薬剤師などの多職種間での、地域医療における連携の在り方を考える、というのがテーマであり、

 

必ず実際の症例を通じてそれを行う、というのがこの会のポイントだろうと思います。

 

 

今回の症例は逆子(39週)関節リウマチ

 

 

どちらも鍼灸院ではよく診る疾患で、しかも西洋医学とコラボすることになる可能性が高いものでしょう。

 

 

逆子に関しては、よく足の小指にある「至陰という経穴にお灸」をするなんていうのが、いわゆる「特効穴的治療」みたいな感じで伝わっております。

 

 

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↑↑赤いシール貼ってあるとこね。足の小指の先。

 

 

因みに、清明院にはしょっちゅう逆子の患者さんが見えますが、私は至陰の灸は滅多にやりません。(^^;

 

 

もともとは「右の」至陰で足太陽膀胱経、足少陰腎経から、結果的に命門の陽気を高める、というのが使用目標であり、メディカルユーコン『経穴解説 増補改訂新装版』では、

 

至陰で効果が出ないものは、腰の命門穴を使うという話が紹介されています。

 

 

DSC_0519

 

↑↑命門穴はここね。なんか効きそうでしょ。(^^)

 

 

また北辰会では以前から、逆子の場合に打鍼でやる手法を、蓮風先生が提案して下さっています。

 

(ここでは詳しくは延べませんが)

 

 

逆子の妊婦さんを診た場合に、腎陽、命門火の不足があれば至陰への灸法を使う可能性が出てきますが、臨床的にはそこまでのものはあまり見かけない、という印象がありますし、

 

現代では画像診断も進歩していますから、物理的に胎児に臍帯が巻き付いているパターンや、臍帯が極端に短い場合、前置胎盤など、母体側の器質的異常にも注意を払わないといけないと思います。

 

 

いずれにせよ、治療は正確な弁証に基づいてなされるべきものと思います。

 

 

因みに因みに、至陰への灸が逆子に効く、という話の正確な出典については定かでないですが、近代文藝社『鍼灸経穴名の解釈と意義』によれば、

 

中国宋代、王執中による『鍼灸資生経』(1220)や中国明代、龔廷賢の『寿世保元』(1615)に難産に至陰を使った話が出てくるようです。

 

 

『中国針灸穴位通鑑』でさらに調べますと、上記よりもさらに少し前の時代の『太平聖恵方』(992)には、すでに同じ話の記載があったようです。

 

 

また、もともとの至陰穴の穴位効能の最古の出典ともいえる『甲乙経』『明堂経』では、瘧(ぎゃく:マラリア)のような症状(寒熱往来)と、

 

頭部の症状が主であるということも、個人的には非常に重要だと思います。

 

 

さらに、原典としての『黄帝内経』『難経』における「井穴」の意味も鑑みないといけないでしょう。

 

 

もともと存在した、それらの考え方を応用して、10世紀ごろまでには、難産や胎位不正に応用的に使われるようになったのが、最初であろうと思われるからです。

 

(そもそも、逆子という概念自体、分かってきたのは18世紀後半です。しかも世界初の記述は日本の賀川玄悦(1700-1777)『子玄子産論』であります☆)

 

 

また、1952年の『日本東洋医学会誌』において、森道伯先生の弟子で産婦人科医、東洋鍼灸専門学校の校長も務めた石野信安先生が逆子の治療に関して発表したのが、日本では有名ですが、

 

石野先生は三陰交という経穴を推奨しており、その著書『女性の一生と漢方』の中で、「最近中国では至陰に灸をして効果があったという報告がある」と書いていますので、

 

「逆子に至陰の灸」を復活させたのは近代の中国なのかな、という感じがします。

 

(どなたか詳しい方、ご教示下さい。<(_ _)>)

 

 

・・・とまあこのように、特効穴というのは、なぜそこが特効穴と言われているかをよく考えて使わないと、臨床で効果を本当の意味で引き出すことは難しいと、常々思っています。

 

 

病理を分析した上で狙ってやった、ということでないと、たまたま効いたとしても、それはマグレということになってしまう。

 

 

逆子に関しては、以前このブログに何度か書きました。

 

本ブログ「逆子」を含む記事

スタッフブログ「逆子」を含む記事   参照

 

 

また今回の症例検討では、逆子に関する鍼灸治療のEBMのお話も出ました。

 

「日本医事新報社」記事 参照

 

 

まあ、産婦人科の先生の中には、「逆子の鍼灸治療は無意味だ」「ほとんどのものは自然に改善する」という主張もあるようですが、一方で、上記のような仕事があることも事実です。

 

 

こうしたことを踏まえて、安全安心で、ポジティブな気持ちで運用したいものですな。

 

 

関節リウマチについても、東洋医学では古くから「痹証」という概念でとらえ、その病態や治療法を考えてきました。

 

スタッフブログ「痹証」

院長ブログ「リウマチを含む記事」   参照

 

 

また、後ほど紹介しますが、4月から清明院に、膠原病を専門とする若い医師が研修に見えているのですが、西洋医学の方でも、治療に難渋する症例は少なくないようです。

 

 

まあ、私の経験上、逆子にもリウマチにも、鍼灸は非常に有効だと思いますので、積極的に活用するべきだと思いますね。

 

 

この会も徐々に受講者が増えてきて、発言も活発に行われ始めました。

 

 

今後、さらに盛り上げる予感を感じさせています。(^^)

 

 

 

次回は6.14(月)の夜20時から、お申し込みやお問い合わせはDAPAのFBページからどうぞ!!(受講費安いです!!)

 

 

 

 

 

 

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森道伯という人物

2018.08.31

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↑↑圧倒的貫禄。これは墓マイラー 森道伯先生で紹介したお写真をもとにした肖像画らしいんですが、素晴らしい出来栄えですね。

 

 

 

 

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昨日、墓マイラー 森道伯先生という記事を書きました。

 

 

・・・まあ、東洋医学をやっている者にとっては言わずと知れた、「一貫堂医学」の創始者であります。

 

 

このブログにも、これまでチョイチョイ、名前だけは登場していました。

 

「森道伯」を含む記事 参照

 

 

・・・さて、どんな人物か。

 

 

 

 

1867年大政奉還の年に、水戸藩(現茨城県中・北部)の、代々武家の家系に生まれる。

 

父は白石又兵衛という。

 

遠い祖先に清和源氏・源頼義がいる。

 

 (清和源氏とは、清和天皇の血を引く源氏姓の一族。後述しますが、皇室とご縁がありそうです。)

 

2歳の時、水戸藩の内乱を逃れて、今の茨城県、笠間城下の陶器商である森喜兵衛の養子となる。

 

 (だから森姓なわけね。)

 

12歳で養父が死去。

 

この時、養母を連れて東京に出て、すでに東京にいた長兄・又二郎とともに、鱉甲彫刻をして生活する。

 

 (なんて立派な12歳なんだ!( ゚Д゚) 現代にはこんなんいないでしょうな。。。)

 

この時の荷物の中に、実父の白石家に伝わる家伝の医書があったそうです。

 

 (この一冊が原点か。因みに詳細不明。)

 

 

1887年(明治15年)、15歳の時、実父の勧めにより、東京(浅草蔵前)で開業していた、実父の知己であり、仙台出身の産科の名医である、

 

遊佐大蓁(ゆさたいしん:正しくは快慎かいしんというらしい)について、3年間医学を学ぶ。

 

因みにこの遊佐先生の先祖は大庄屋で、医家としての初代の人物は、婦人科で有名なあの賀川玄悦(1700-1777)の学統であり、

 

道伯が師事したのは医家としての遊佐家の2代目で、4代目の遊佐寿助は宮城県薬剤師会の初代会長であったらしい。

 

賀川玄悦という人物

墓マイラー 14      参照

 

(繋がるね~~(゜o゜))

 

 

・・・ともかく、その後も鱉甲職人を続けながら、清水良斉という漢方医について漢方を学ぶ。

 

この清水先生がまた謎の人物で、名医だったそうだが大酒呑みで、ある時、旅に出ると家を出たまま、忽然と姿を消したそうで、その後を継ぐ形で「道伯」と号し、診療を行うようになったそうです。

 

 (まあ、神が道伯先生に診療所を与えたんでしょうかね。。。)

 

因みに道伯は鱉甲彫刻職人としても「西町の豊光(彫刻師としての道伯の号)」と呼ばれ、名が売れていたらしい。

 

 (サスガです。<m(__)m> きっかけは生活の為でも、やるからにはマジ、って感じだったんでしょうな。)

 

明治24年、24歳で最初の結婚。

 

26歳で長男義之介、30歳で次男光隆が生まれる。

 

(結婚してすぐに長女が生まれたそうですが、出生後すぐに亡くなってしまったそうです。)

 

明治32年、32歳の時に妻が妊娠中に腸チフスに罹り、流産し、亡くなる。

 

この時、道伯自身も、水戸に旅した際に風湿に中たり、強烈な黄疸を発し、清水良斉の治療を受けるも、生死を彷徨う。

 

(この時のエピソードについては後述します。)

 

 

1902年(明治35年)、35歳「日本仏教同志会」創立、社会教化運動を行う。

 

 (これは明治39年には解散したらしいですが。。)

 

↑↑こういうところも、道伯先生の面白いところです。

 

医家であると同時に、彫刻家であり、宗教家、社会活動家でもあったんですね。(゜o゜)

 

道伯先生は大変博学で、禅宗、真言密教にも精通しており、熱心に観音信仰をしていたそうです。

 

また政治や経済にも明るく、観劇に行く趣味もあったとか。

 

30代の頃、清水良斉先生の失踪後、「一貫堂」の看板を掲げて「道伯」と号し、診療を行うようになったそうです。

 

「一貫堂」はかつて師事した遊佐先生の診療所からとったもので、論語の里仁第四にある吾道一以貫之に基づいているそうです。

 

 

明治41年、41歳で再婚し、42年、道伯先生にとっては第4子である敬三郎が出生。

 

 

1918年(大正7年)、51歳の時、スペインかぜが大流行した際、病のパターンを胃腸型、肺炎型、脳症の3つに分け、それぞれ漢方で治療し、

 

大いに効果を挙げたという逸話はあまりにも有名です。

 

 

1923年(大正12年)、56歳で関東大震災に遭遇、居所保護法の建議案を訴えて、上野公園で演説を行う。

 

 (こういう、政治活動家的な側面もあったようですね。)

 

 

1926年(大正15年)、59歳の時、門人・西原学氏が「漢方専門」と標榜したところ、医師会から圧迫を受けたことをきっかけに、森先生は憤慨し、

 

長野市善光寺にて「漢方医道復興大講演会」を開催し、

 

「漢方を滅さんと欲せば、まず森道伯の首を刎ねよ!!」

 

との有名な文句を叫び、専門科名認可の訴訟を起こし、ついにこれを獲得しました。

 

 (スゲエ!(゜o゜) でも森先生は無資格!!みたいなね。。(笑))

 

 

・・・この、魂の籠った一言が、昭和の「漢方復興運動」の第一声と言ってもいいでしょう。

 

 

今日、街中に当たり前に「〇〇漢方クリニック」とか、総合病院内の中に「漢方外来」なんてのがあるのは、古くは森先生のこの行動のお陰と言ってもいいでしょう。

 

 

1930年(昭和5年)、63歳の時、森道伯の名声を伝え聞いた竹田宮、北白川宮から治療の依頼あり。

 

 (ここで皇室と繋がるわけです。何かの縁なんでしょうね。)

 

同年8月、歩行困難を訴え、9月には病床に伏せ、脊髄炎、尿毒症を起こす。

 

 

1931年(昭和6年)、64歳で逝去。

 

亡くなる3年前には、自分の死期を家人に告げていた。

 

 (ということはやはりあの墓石は自分で建てたっぽいですね。。。)

 

道伯先生は32歳の時に大病をした時に、観音菩薩に、

 

「寿命をもう32年延ばしてくれ、そしたら残りの人生は東洋医学の復興のために生きる」

 

と日夜お願いし、鍼灸と漢方薬で全治した経験があるらしく、その予言の通り、64歳でこの世を去った。

 

臨床でも、非常に直観が冴えており、不問診で患者の状態をピタッと言い当てたり、患者がこれからかかる病を予言し、その通りになったりと、

 

霊能力者っぽい逸話も多い先生であります。

 

 

 

 

以前書いた丸山昌朗先生といい、自分の死期を正確に悟っていたエピソードは、他の先生でもけっこうありますね。

 

丸山昌朗という人物 

墓マイラー 36 丸山昌朗先生  参照

 

 

名医らしいエピソードだと思います。

 

 

また道伯先生は

 

「術は以心伝心で初めて伝わるもの」

 

とし、著述を好まず、書籍は残っていないそうです。

 

 

もっとも有名な弟子である矢数格(道斎)先生『漢方一貫堂医学』が、森先生を知る重要な手がかりだと思います。

 

 

また、この先生は臨床において漢方だけでなく鍼灸も非常に重用したようであり、弟子には「人迎脈口診」の研究で有名な小椋道益先生や、

 

『漢方医術復興の理論』の著者で、昭和の時代に経絡治療を唱道したことで知られる竹山晋一郎先生、また婦人科医で、現在私が講師としてお世話になっている

 

東洋鍼灸専門学校の校長でもあった石野信安先生、他にも刺絡で有名な工藤訓正先生や、道伯先生と直接は会っていないようですが柳谷素霊先生門下の西沢道允先生など、

 

鍼灸師に与えた影響や、鍼灸そのものとの縁も深いです。

 

 

お弟子さんの諸先生方の後日談によって、この先生の臨床でのエピソードはたくさんあるのですが、特に印象に残ったものを二つ紹介します。

 

 

矢数格(道斎)先生の弟君である矢数道明先生が、漢方を学びながらも西洋医学にも興味を持ち、こっそりと患者の尿検査をしていたところ、それが道伯先生の耳に入り、

 

「試験管で小便の検査をしなければ治療が出来ないような漢方家になるならやめてしまえ!破門だ!!」

 

と怒鳴られたとか、あるお金持ちの患者さんが、処方を渡されて、帰るときに受付で

 

「これで本当に治るんでしょうか?」

 

と尋ねると、

 

「疑うような薬なんか飲むな!」

 

と一喝し、一旦渡した薬を引き取った事があるそうです。

 

(後日この患者さんは自分の態度振る舞いを反省し、無事治ったそうです。)

 

 

・・・とまあ、アツい臨床家、という感じの森先生。

 

 

この情熱が、多くの患者さんを救い、多くの優秀な後輩の心に火をつけ、現代まで脈々と続いているのでしょう。

 

 

「漢方医学復興」といえば、森道伯と同じ時代を生き、似た主張をした大人物である和田啓十郎先生とは、親交や面識があったかどうかは分かりませんが、

 

和田先生の場合は先に西洋医学を学び、その後に東洋医学に傾倒した人物で、業界に対して、ある種のイデオローグ的な言行を取ったのと違い、

 

森先生は最初からまさに「一貫して」漢方医学であり、生涯一臨床家であったと、後の竹山晋一郎先生は両者をともに”天才”と評価しつつ、

 

対比、比較しています。

 

 

また、和田啓十郎先生の息子さんである和田正系先生と、森道伯先生の高弟である矢数格(道斎)先生が、千葉医専(現千葉大学医学部)の同級生であったことは、

 

単なる偶然でない気がしてなりません。

 

和田啓十郎という人物

墓マイラー 39  和田啓十郎先生    参照

 

 

・・・以上、どんなにコンパクトにまとめても僕の頭と文章力ではこれぐらいになってしまうので、肝心の「一貫堂医学」がどういうもので、

 

鍼灸ではどういう風に応用が利くか、みたいな話は、また違うところで書きましょう。(笑)

 

 

イヤーなんか、森家と和田家と矢数家、そして大塚家、柳谷素霊先生、千葉大学、北里大学、東洋鍼灸専門学校と、一連の近代日本東洋医学の歴史の流れ、重みを感じます。

 

 

また、僕としては、一貫堂も、森道伯先生の弟子には鍼灸師もいるのに、どこからか、鍼灸師と漢方医が一枚岩でなくなってしまったような感じがして、それが悔やまれますね。。。

 

 

 

 

◆参考引用文献

 

『漢方一貫堂医学』矢数格

『漢方一貫堂の世界』松本克彦

『漢方医術復興の理論』竹山晋一朗

『森道伯先生生誕百年祭記念文集』仁性会

『森道伯先生伝並一貫堂医学大綱』道齋矢数格編

『漢方治療百話 第八集』矢数道明

 

 

 

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墓マイラー 14

2016.01.20

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先日も、藤本漢祥院研修の後は、墓参に行ってきました!!

 

 

今回の墓マイラーは賀川玄悦(かがわげんえつ)先生です。

 

 

この先生は、日本の産婦人科の父と言っても過言ではない人物です。

 

 

後ほどゆっくり紹介します。

 

 

賀川先生の墓は京都、下京区にある玉樹寺(ぎょくじゅじ)というお寺に、親子三代で並んで在ります。

 

 

 

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墓石の中央が玄悦先生、向かって左が2代目の子啓先生、向かって右が3代目の子全先生だそうです。

 

 

子全先生の墓石以外は、老朽化が激しかったため、昭和52年に新たに建て替えられたんだそうです。

 

 

 

合掌

 

 

 

 

 

 

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