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「蛮社の獄」について。

2019.11.08

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今日、ある場所で久々に「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」という言葉を聞いた。

 

 

1839年(天保10年)、江戸末期に起きた言論弾圧事件である。

 

 

そこで、少し調べてみた。

 

 

江戸で蘭学が本格的に興隆したのは1830年代。

 

 

「蛮社の獄」「蛮社」という言い方は、当時の国学者たちが、蘭学者を揶揄した蔑称であった。

 

(南蛮の学を学ぶ同好の集団、社中という意味で、「蛮学社中」の略、とのこと。)

 

 

この当時、蘭学の唱導者の代表格の一人が渡辺崋山(1793-1841)

 

 

崋山は、林羅山(1583-1657)を始祖とする儒学者、朱子学者の家系である林家(りんけ)の門人でありながら、蘭学に傾倒し、多くの儒学者を蘭学に引き込んだことから、

 

国学者側から目の敵にされた。

 

 

江戸幕府は、朱子学を正当な国学とし、それ以外に対しては排他的な傾向があった。

 

 

弾圧の首謀者は鳥居耀蔵(とりいようぞう 1796-1873)、林家出身の儒学者だった。

 

 

 

続く。

 

 

 

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「太極」「無極」の意味 参考引用文献

2019.10.07

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このシリーズも、あらゆる書籍を参考にさせて頂きました。

 

 

以下に、メインとなった書籍を挙げておきます。

 

 

 

『漢易研究』鈴木由次郎

 

『宋代易学の研究』今井宇三郎

 

『太玄易の研究』今井宇三郎

 

『太玄経』鈴木由次郎

 

『易学入門』安岡正篤

 

『易と人生哲学』安岡正篤

 

『気の思想』小野沢精一ほか

 

『戴震の哲学』村瀬裕也

 

『王弼の易注』塘耕次

 

『周易参同契』鈴木由次郎

 

『朱子の自然学』山田慶児

 

『朱子の哲学』大濱晧

 

『朱子学と陽明学』島田虔次

 

『朱子学と陽明学』小島毅

 

『易』本田済

 

『易経講話』公田連太郎

 

『東洋易学思想論攷』濱久雄

 

『占いの想像力』池田知久ほか

 

『東洋医学の宇宙』藤本蓮風

 

『鍼灸治療のための易経入門』小林詔司

 

『鍼灸・漢方の名医になるための秘訣』神野英明

 

『鍼灸真髄』代田文誌

 

『鍼灸沢田流』山田国弼

 

 

この他にもたくさんあるんですが、メインとしてはこんなところです。

 

 

 

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「太極」「無極」の意味 7

2019.09.22

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これまでのお話し

 

「太極」「無極」の意味    

「太極」「無極」の意味 2 

「太極」「無極」の意味 3      

「太極」「無極」の意味 4  

「太極」「無極」の意味 5      参照

 

 

さて、続きいきましょう!!

 

 

◆「気」の哲学の変遷

 

 

さてここまで、「太極」「無極」「その両者の関係」「鍼灸臨床家としてはどうか」あたりを題材として話を進めてきました。

 

 

「臨床家としてはどうか」というところで、北辰会ではこの医学の言う「陰陽論」を、単に「陰陽論」と呼ぶのではなく「”太極”陰陽論」として、

 

理解、運用するべきだ、というお話(臨床古典学)もしました。

 

 

蓮風先生の御著書では、中国、成都中医薬大学の教授で、易学の大家である鄒学熹先生『易学十講』の論を参考に、陰陽論というのは「陰」「陽」「その境界線」の3つ、

 

「三を含みて一となす」という考えがあり、全て一つであるという太極と、陰陽と境界の太極があるからだ、と説きます。

 

(因みにこの辺の詳細(『易学十講』の部分的翻訳)は、北辰会機関誌『ほくと』17号に掲載されています。)

 

 

まあこれは、簡単に言えば何かを陰陽に分ける時に、その基準(境界)を明確に!というお話です。

 

 

そしてこれには、背景として「気一元論」という考え方があります。

 

「気一元論」を含む記事  参照

 

 

「気一元論」は、簡単に言えば「この世界は全て気で出来ているのさ」という考え方です。

 

 

東京大学出版会『気の思想』によれば、「気一元論」という言い方は、特に誰それさんが言い出した言葉、というワケではないようで、古くは『老子』『荘子』『淮南子』の中にもあるっちゃある考え方であり、

 

この考え方を強調したのは、中国では北宋の張横渠(ちょうおうきょ 張載(ちょうさい)ともいう 1020-1077)、日本では伊藤仁斎(1627-1705)が有名だそうです。

 

伊藤仁斎という人物    参照

 

張横渠もせっかくなんでそのうち紹介しましょう。この人は何とあの程顥と程頤(二程子)の叔父さんです。優秀な一族だねえ~~ (゜レ゜))

 

 

荘子の

 

 

・・・因みに、現代中国では大きく気の哲学について3つの流れがあると考えているそうで、

 

1.程伊川と朱子の「性即理」の考え方(客観唯心論、客観的観念論)

 

2.陸象山と王陽明の「心即理」の考え方(主観唯心論、主観的観念論)

 

3.張横渠と王夫之の「気」の哲学(唯物論)

 

とし、3.の唯物論哲学こそ最高のものである、としているそうです。

 

(by 『朱子学と陽明学』島田虔次)

 

(因みに、王夫之気一元論に関してはこの論文が参考になりました。)

 

 

しかしこの、3.の、気一元論を、全くの唯物論と解し、それを最高のものとする考え方と、北辰会の考え方は違います。

 

 

中国哲学、中国伝統医学に通底する「気」という概念は、唯物論でとらえきれるものではない、と考えています。

 

 

北辰会では「気」を唯物論でとらえ、最小精微な物質である、とするのではなく、むしろ生命原理、生命原体ともいうべきものとして、生気論的に理解しています。

 

 

つまり「気」を、物理学(ニュートン力学)の言うような質量を持った存在、と考えるのであれば、それとは認識を異にする、ということです。

 

(といって、量子力学の言うような素粒子とも同じでないと思いますが。)

 

 

・・・ま、「気ってなに??」という問いに対しては、トートロジー的になるけど、10年前に書いたように、「気は気です。」という答えがやっぱベストかな、と。

 

「気」ってなんですか?(その3)    参照

 

 

ここまでの話で言えば、生成論の太極も、場の論の太極も、認識論、存在論における主観と客観も、ぜーんぶただ一つの気の動きの一様態ですよ、ってことですね。

 

 

次回、清代に「気は動きである」この理論を完成させたと言われる戴震(1723-1778)さんを紹介します。

 

 

 

続く。

 

 

 

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「太極」「無極」の意味 4

2019.09.19

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これまでのお話し

 

「太極」「無極」の意味    

「太極」「無極」の意味 2 

「太極」「無極」の意味 3          参照

 

 

さて、続きいきましょう!!

 

 

◆朱子の言う「理気二元論」とは。

 

 

前回、

 

南宋代の朱子(朱熹 1130-1200)は、無極と太極を同一次元のものとし、ともに「理」の基本的性格を表す語とし、有の次元に無の原理性を取り込んだ。

 

という文章を紹介しました。

 

 

・・・これ、どういう意味でしょ??

 

 

朱子さんが言うには、太極の本源が無極なのではなく、太極も無極も「理」の性質の一部、と同一地平で理解するわけですね。

 

 

ほんじゃ、朱子さんの言う「理」って何なんすかね??

 

 

まあ、生理学、病理学、物理学、心理学、理科学、義理、道理などなど・・・、現代日本語にもよく出てくる「理」という漢字

 

 

これは、日本にこの「理」という考え方が深く浸透していることを示します。

 

 

「理」については、簡単な字義解釈については、以前纏めました。

 

「理」の意味 5    参照

 

 

 

朱子さんはそれまでの説をまとめ、再構成して、壮大な学問(朱子学)を構築した訳ですが、彼の言う「理」の持つ意味は、文脈によってなかなか多義性があるようですが、

 

要するに中心的な意味を一語で言えば

 

「ものごとの法則」

 

ということだろうと思います。

 

(ホントはこれを言うために性即理理一分殊について書かないとなんだけど、煩雑になるので、ここでは割愛します)

 

(なお、これらの解釈は山田慶児『朱子の自然学』P444、大濱晧『朱子の哲学』P33、島田虔次『朱子学と陽明学』P60などを参考にしています。)

 

 

・・・なんかこれ、道教の言う「道(タオ)」と似てますね。

 

道教・道家思想    参照

 

(文脈によっては”同義”と書いている本もあります。)

 

 

・・・で、この形而上の概念である「理」と、形而下の概念である「気」は別のものだけど、両者は離れて存在することは出来ないよ、という風に説明して、

 

この世界(宇宙)の存在を説いたのが、朱子さんの有名な「理気二元論」てやつなんだそうです。

 

「形而上学」と「形而下学」 2     参照

 

 

・・・で、この朱子学、「理気二元論」においては、有の原理である「太極」も、無の原理である「無極」も、形而上の法則である「理」の基本的な性質であるとして、

 

優位性や先後論なしに、同一次元でマルッと纏めた訳ですな。

 

 

これを、あえてもう少し詳しく言うと、『朱子語類 巻九十四』にあるように、

 

「無極は有理にして無形。・・・太極はこれ五行陰陽の理。」

 

とあるように、要は

 

「”理”の無形の面を無極、”理”の陰陽五行(つまり物質も含む”気”のこと)の根源である面を太極」

 

と言ったわけです。

 

 

さらにこれを、僕なりにかみ砕いていえば、

 

「”理”が物質を超越した面を無極、”理”が物質と連関する面を太極」

 

と言ったわけですね。

 

(・・・と、今のところ僕は解釈しています。)

 

 

朱子さんは、それが周敦頤『太極図説』にいう「無極而太極」の意味である、と説くわけです。

 

 

太極と無極に違いはあるけど、「理(ものごとの法則)」という意味では同じであると。

 

 

・・・さて次に、なぜ蓮風先生がこの医学における陰陽論をわざわざ「太極陰陽論」と言っているかについて、考えてみましょう。

 

 

 

続く

 

 

 

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「太極」「無極」の意味 3

2019.09.18

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これまでのお話し

 

「太極」「無極」の意味    

「太極」「無極」の意味 2    参照

 

 

さて、続きいきましょう!!

 

 

◆「無極」の意味

 

 

(一社)北辰会の会員諸氏にとって、この「太極」「無極」というパワーワードは、非常に気になるワードでしょう。

 

 

また北辰会の会員以外の先生方も、東洋医学の勉強がある程度進んだら、気になる人は多い筈。

 

 

 

僕がちょうど北辰会にチョロチョロと出入りするようになった2000年代の初頭の頃、蓮風先生はよく「初学者のための太極陰陽論」というテーマで講義なさっていました。

 

(当時は難解で、聴いていてもよく分かりませんでしたが。。。(∩´∀`)∩)

 

 

その講義内容を分かり易くまとめた本が『東洋医学の宇宙―太極陰陽論で知る人体と世界―』です。

 

 

因みにこの本は、堀内齊毉龍先生『弁証論治のための論理学入門』と姉妹編になっていることも見逃せません。

 

 

しかも、蓮風先生の御尊父である藤本和風先生「無極会」という勉強会を主催されていたことでも知られています。

 

(残念なことに、無極会は現在はありませんし、無極会としての著作も残っていません。。。)

 

 

・・・まあそんな訳で、このワードは藤本家、北辰会が非常に大事にしていることが分かります。

 

 

東洋医学の考え方を理解していくうえで、また、北辰会方式を習得していくうえで、妙に気になる、この「太極」「無極」に対する理解というのは、

 

根本哲学に関わるという意味で、重要ではないでしょうか。

 

 

前回、北宋代の周敦頤(1017-1073)「無極而太極」という、これまたパワーワードを紹介しました。

 

 

ここで、まずは「無極」について調べてみましょう。

 

 

平河出版社『道教事典』によれば、

 

 

◆無極

 

元来は”極まりない”という意味。

 

『老子』『荘子』『列子』に、無名、無物、無形などとともに、”無”の様態を形容する語の一つとして、哲学的意味を付与されている。

 

「老子」という人物

「荘子」という人物

『荘子』の渾沌のお話

「列子」を含む記事          参照

 

(列子に関しては紹介してなかったですね、良い機会なんで、これも書きましょう!!)

 

 

その後、『易経』の「太極」とともに、”太極=有の原理”、”無極=無の原理”として、より重い意味を持つようになる。

 

『易経』を含む記事    参照

 

 

つまり、有の本源に無を置くという思想から、儒教を超える道家思想、という図式を表現した。

 

道教文献の中にはもちろん”極まりない”という意味での「無極」という使われ方もあるが、主に、”太極の本源としての無極”という用例が目立つ。

 

また、「無極」を、経典そのものや、神仙の名称としても用いている。

 

南宋代の朱子(朱熹 1130-1200)は、無極と太極を同一次元のものとし、ともに「理」の基本的性格を表す語とし、有の次元に無の原理性を取り込んだ。

 

(んー、ここはムツカシー(゜o゜))

 

(以上引用。土田健次郎氏の文章を竹下が抜粋要約補足改変。)

 

 

 

 

・・・まあなるほど、「無極」はもともとは諸家の本に出てくる、極まりない、というほどの意味の言葉だったのが、『易経』の太極(生成論の最初を意味するアレね)と比較検討されていくことで、

 

理解が深まっていき、これも認識論哲学的な、重い意味を持つようになった、と。

 

 

このように、儒家の考え方と道家の考え方というのは、時代時代で接触したり離れたりしつつ、言葉の意味の検討を通じて、切磋琢磨してきた歴史があるようですね。

 

(また、古代中国で、インドから来た仏教を理解するのに、道家や儒家の考え方がその解釈に入っていったことも興味深いですね。)

 

 

まあ、「太極」「無極」という熟語の理解においては、宋代の周敦頤から朱子の流れがやはり決定的であるようで、ここをもう少し理解するためには、

 

朱子学における「理」の意味を少し掘り下げて理解した方がいいように感じます。

 

 

 

続く

 

 

 

【参考文献】

 

『道教事典』平河出版社

 

 

 

 

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「体用理論」に関して 5

2019.08.06

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これまでのお話し

 

「体用理論」に関して 1

「体用理論」に関して 2   

「体用理論」に関して 3  

「体用理論」に関して 4     参照

 

 

◆滑伯仁の「体用」観。

 

 

尊敬する大先輩である神野英明先生『鍼灸・漢方の名医になるための秘訣』に、中国元代の名医、滑寿(かつじゅ 別名:滑伯仁かつはくじん 1304-1386)の見解が紹介してあるので、触れておきます。

 

 

滑伯仁についてはこのブログに何度も出てきていますが、そのうちきちんと紹介しましょう。

 

「滑伯仁」を含む記事 参照

 

 

滑伯仁は、現代の鍼灸学校の経絡経穴学の教科書の元ネタと言っていい『十四経発揮』や、現代の鍼灸師の脈診と言えば一番有名な「六部定位脈診」の根拠となる『診家枢要』を著した人物であり、

 

『難経』の解釈本としても極めて重要な『難経本義』の著者でもあり、現代の日本伝統鍼灸の臨床家にとっては避けて通れない人物です。

 

「六部定位脈診」の根拠    参照

 

 

その滑伯仁の発言として、張景岳先生が紹介しているくだりです。

 

「最も微妙なものは理、最も顕著なものは象、体用は根源的に一つ、微妙と顕著には間が無く、その理を理解すれば現象は押し広げて分かるものです。」

 

と。

 

(滑伯仁の発言を張景岳が引くってのも、ワクワクしますね。)

 

「張景岳(ちょうけいがく)」という人物    参照

 

 

元の時代に、鍼灸医学を猛プッシュして下さった名医である滑伯仁先生は、最も霊妙な原理と、最も顕著な現象は、根源的に一つ(体用一源)で、

 

しかもその間は無い(体用無間、顕微無間)と言います。

 

 

どういうレベルでそう言えると発言したのか、また、どういう文脈で述べたのか、非常に気になりますが、基本的には朱子学の見解の通りなんだと思います。

 

 

体用理論に関しての補足、一先ずここまでとします。

 

 

また私自身の理解が深まったら、補筆するかもしれません。

 

 

 

【参考文献】

 

『宋代易学の研究』今井宇三郎著 明治図書出版

『鍼灸漢方の名医になるための秘訣』神野英明著 たにぐち書店

『臓腑経絡学』藤本蓮風他 アルテミシア

 

 
 
 

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「体用理論」に関して 4

2019.08.05

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これまでのお話し

 

「体用理論」に関して 1

「体用理論」に関して 2   

「体用理論」に関して 3       参照

 

 

 

◆「体先用後」「体用一源」

 

 

ここまでの話をまとめると、東洋医学(特に肝の臓の生理機能を説明する際)でもたまに出てくる「体用論」という考え方は、もともと仏教由来の言葉であり、

 

東大のチャールズ教授の言説によれば、この考え方は中国独特であり、中華三大宗教と言われる「儒・道・仏」三教すべてに、強い影響を与えているようだ。

 

 

仏教については出典を簡単に述べたが、儒教ではどうか、という部分については、今井宇三郎先生(1911-2005)『宋代易学の研究』に詳しい。

 

(この本、東洋医学者には必携の書だと思うんだけど、超希少本で古本市場で10万超え。。。再版されねえかなー (=゚ω゚)ノ)

 

 

ここでも、もともと「体用」の起源は仏教にあることを紹介しつつ、魏の王弼(おうひつ 226-249)の、

 

「無の用は有、有の体は無。」

 

唐代(618-907)孔穎達(くようだつ 574-648)『周易正義』に採り上げられていることに触れている。

 

(なんか深い意味がありそうなものの言い方だけど、名前が”有”の俺にとってはなんかハラ立つ。。。(苦笑))

 

 

そして、上記の考え方は宇宙生成論としての体用論であって、宋学の祖と言われる周敦頤(しゅうとんい 別名:周濂渓しゅうれんけい1017-1073)の高弟である

 

程頤(ていい 別名:程伊川ていいせん 1033-1107)の、「体用一源」「顕微無間(けんびむげん)」の考え方とは異なる、と述べておられます。

 

 

・・・まあ、宋代の学問(特に儒学)の流れを簡単に言うと、周敦頤さんの弟子である程頤さんが考えた「理気二元論」てのをさらに深く解釈して、

 

大成したのが朱熹さんで、朱熹さんは周敦頤、張黄渠、程頤、程顥の四人の凄い先生の言説をまとめて、それまでの儒学を刷新して「朱子学」をブチ上げたんですが、

 

この新しい流れを「宋学」なんて言います。

 

(この5人もそのうち紹介しましょう)

 

 

「宋学」(狭義では朱子学)では

 

”(この世の森羅万象の)存在って何なの??”

 

ということを考えたりするんですが、存在は「理と気」からなっている、と考えます。

 

 

まあ、理は法則、原理であり形而上のもの、気は物質的であり形而下のもの、なんて言われます。

 

(これについてはまたゆっくりと語りましょう)

 

 

理気と体用、なんか似ていますね。

 

 

この理と気には、「先に理があって後に気がある」という先後論があります。

 

 

そこから、朱子学では「体先用後」という考え方があります。

 

 

『宋代易学の研究』には、この先後論は、時間的観念によって説くものではなく、認識論的観念によって説くものである、と、何やら難しい解説がしてあります。(苦笑)

 

 

要するに、先に理があって後に気があるというのは、時間的な前後のことを言っているのではなくて、存在を認識する時にそのように理解した方が妥当だ、

 

ということでしょうかね。

 

 

この先後論に関しては諸説あるようで、この論文が参考になりました。

 

三浦梅園先生が出てきている!!)

 

 

個人的には、こういう先後論についての回答は、仏教の言う

 

「常に時間は循環しているものであるので、最初は存在しない。」

 

という回答が、個人的には潔くて好きだったりします。(゚∀゚)

 

 

 

続く 

 

 

 

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「体用理論」に関して 2

2019.08.02

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前回のお話し

 

「体用理論」に関して 1     参照

 

 

そもそもこの「体用論」というものの淵源は何なんでしょうか。

 

 

これは、中国哲学の中でも、仏教に由来する言葉のようです。

 

 

岩波の『仏教辞典 第二版』によれば・・・

 

 

◆「体用(たいゆう)」

 

「体」は実体であり本体、「用」は作用あるいは現象、という意味に解されるが、より一般的に言えば「体」は根本的なもの、「用」は派生的、従属的なものを、

 

相関的に意味すべく用いられている概念である。

 

「体用」の概念が仏教に由来するかどうかの議論はすでに南宋の王応麟『困学紀聞』巻一に見える。

 

「体用」を「本・用」とか「本・末」とか「質・用」とかの類似の概念まで広げず、「体用」という語のみの論法、表現のみを問題にすれば、

 

5世紀後半から6世紀に、仏教関係の著作において明白な使用例がみられる。

 

論法としては僧肇(そうじょう 374-414)『肇論(じょうろん)』般若無知論などに見え、表現としては梁代(502-557)の武帝(蕭衍しょうえん)の『立神明成仏義』の沈績の注などにみえる。

 

【用例】「能に体用の事を知るべし。体は花、用は匂いの如し、または月と影の如し。」(世阿弥『至花道』1420年)

 

(引用終わり(抜粋要約 by 竹下))

 

 

なるほど、もともとは仏教の用語な訳か。。。

 

 

花と匂い、月と影とは、世阿弥の表現、サスガ、いいですね。(^^)

 

 

些末な問題ですが、仏教用語として使う場合は「たいゆう」と発音し、それ以外の場面では「たいよう」でいいようです。

 

 

この用語の歴史と理解に関して、東大のチャールズ・ミュラー教授の論文に多岐に渡って詳しくまとめてありました。

 

(いやー、学者さんてのはスゴイね~ そして、これがパッと出てくるネット、素晴らしい。。。)

 

 

ここに、

 

・・・歴史的に見れば、体用は中国に特有かつ典型的な概念で、東アジアに受け継がれてきた三つの宗教「儒教、道教、仏教」のすべてにおいて、

 

哲学的基礎づけを与える構造的枠組みであり、インドやチベットの仏教に対して東アジア仏教を特徴づける第一のパラダイムである。・・・

 

とある。

 

 

・・・うーむ、なるほど。

 

 

この「体用」という熟語そのもののの意味ではなく、「体用」に象徴される考え方(チャールズ先生は”体用パラダイム”と呼んでいる)が、

 

チベットやインドと違う、東アジア独特のものであり、儒、道、仏全てに影響を与えていると。

 

 

とりわけ、これが朱子学理気二元論にも影響を与え、後の朝鮮半島における「四七論争」に連なり、より理解が深まった、というワケですかね。

 

 

16世紀の朝鮮半島における「四七論争」がいかなるものかについてはこちらが参考になったが、うーん・・・まあ、僕がこれをキチッと読めているかどうかは、

 

識者に教わりたいけど、これって要は「理気二元論」「体用」が一元論で語れるか、それとも絶対的な主従や先後などのある二元論か、って話だと思うんですよね。

 

 

僕らからすれば当然、陰陽論と同じ解釈で、

 

「そんなん、二元的一元論でいんじゃね? 場面場面における標本主従じゃね??」

 

の一言に尽きますけどね。。。

 

因みに『理気二元論』に関するこの辺の話は 大濱晧『朱子の哲学』東京大学出版会 に詳しい。)

 

 

ちょっと難しいけど、この辺の話、もうチョイ掘り下げときましょ。

 

(もはや誰もついてこなそうだが。。。(;’∀’))

 

 

 

続く

 

 

 

 

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「理」の意味 3

2016.07.31

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これまでのお話・・・

 

「理」の意味

「理」の意味 2       参照

 

 

 

◆諸子百家の「理」

 

 

ここで、「理」という言葉の、諸子百家それぞれによる用いられ方に触れておきたいと思います。

 

 

小学館の『日本大百科全書』によれば、「理」

 

『墨子』では、”道徳的規範”という意味で用いられ、

『荘子』では”自然の理法”、つまり「道」と並ぶ、重要な意味で用いられ、

『韓非子』では”法”として

 

用いられるそうです。

 

 

また、

 

『淮南子』においては”自然の法則性”、”道理”という意味で用いられ、

儒家では宋の時代に至って、朱熹朱子学では「気」の裏で働く法則性を「理」とし、

 

有名な「理気二元論」といって、「理」「気」を分けることで、自然を理解しようとしました。

 

 

その後、明の時代、

 

王陽明陽明学では、『伝習録』中巻の中で、「理」「気」を分けつつも、「理は気の条理、気は理の運用」と述べ、

 

「理」「気」を一体のものとして「理気一体観」を提示し、朱子学の「性即理」に対して「心即理」と唱えています。

 

 

また、仏教の方では、個別具体的な事象、現象を「事」と言い、それを理論づけたり言葉に乗せること(「事」の背後にある普遍的理法)を「理」と言うそうです。

 

(岩波『仏教辞典』第二版)

 

 

・・・とまあ、ゴチャゴチャと難しいようですが、要は、諸子百家において大体共通しているのは、モノの法則、自然界における理論のことを「理」といっているワケです。

 

 

そして一方では、『荘子』における”道”とか、仏教における”事”など、直観的把握に頼らざるを得なかったり、個別具体的な現象であったりして、

 

なかなか理論化できない、説明不能なものも、中国哲学では重視している、ということも言えるでしょう。

 

 

 

続く

 

 

 

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「左肝右肺」に関して 2

2014.12.11

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前回のお話・・・

 


「左肝右肺」に関して
 参照

 


では続き行きます。

 

左肝右肺の論を考えるときに、東洋医学の基本である「天人合一思想」を思い出す必要があるように思います。

 

「天人合一思想」に関して、鍼灸学校の現行教科書である『新版 東洋医学概論』によると、

 

1.人体の形と機能とが、天地自然(自然環境)と相応していること


2.人と自然は一体であること

 

だそうです。(P13)

 

 

因みに『黄帝内経』には、『霊枢』邪客篇(71)「人與天地相應者也.」とあり、『素問』五蔵生成篇(10)には「五藏之象.可以類推.」ともあります。

 

 

歴史的には、すでに中国、春秋戦国時代の孟子などの諸子、あるいはそれ以前から、この思想の原型がみえるようですが、これは要するに天と人を対立するものとせず、

 

本来それは一体のものである、とする思想だそうです。

 

なお、朱子学でいう「天理人欲」という命題も、ひとつの天人合一論でしょうし、南宋の道教経典の一つであり、日本でも盛んに翻訳された『太上感応篇』の内容(司過神など)も、

 

天人合一思想の現れと言えると思います。

 

 


・・・まあ、儒教も道教も、この天人合一思想の影響を、少なからず受けている、ということなんですね。

「荘子」という人物 
カテゴリ 「道教・道家思想」

カテゴリ 「儒教・儒家思想」
「朱子学」 を含む記事      
参照

 

この壮大な考え方に則って、人体を医学的、生理学的にみていくと、例えば前回お話したような「顔面」とか、「腹部」なんていう、人体における”一部分”も、

 

全体(大宇宙)の縮図である、という発想が起こり、全宇宙、大宇宙と同じ、同一性、相似性、大いにあり、という考え方に繋がってきます。

そうして、その仮説を、現実の臨床と重ね合わせながら、突き詰めて考えていった結果、腹部や顔面における異常所見が、

 

「左は肝、右は肺」

 

と診ることが出来る、と結論付けられるようになっていったのでしょう。

 

続く

 

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